昨日の隅田川花火大会はおもしろかった。友達とね茣蓙(ござ)、ではなくてブルーシートの上に座って、ビールを飲みながら。うん、最高ですね。で、本来ならば今日のブログはそのレポートだったんですが、今日はよさこいネタで。
昨日、大分飲んだみたいです。量は飲んでないのかもしれないけど、暑かったし、前日の夜から自転車で西へ東へ、北へ南へと走り回っていたから疲れてたんですね。一度、いつもよりちょっと遅いくらいに起きたんだけど、頭があまりにも働かないもので、勇気を持って二度寝したんです。そしたら10時半。で、その後PCつけていろいろやってると、どこかで「音」が聞こえたんです。この「音」なにか、胸をざわつかせるじゃありませんか。ってことで、最近活躍中の自転車をまた走らせ、向かうは浅草千束通り商店街。
そう、今日は「スーパーROCK よさこい祭」なんですね。昨日は花火、今日はよさこい。あーなんて忙しい週末なんだろ。ホント下手な写真ばかり撮りました。
けどいいよね、踊ってる人、結構若い人多くてさ。なんか、知らず知らずではなくて、今回は、わざと若い人をメインに写真撮ってたよ。しかも女の子が多いなんて云ったら彼女に怒られるのだろうが。。。
う~ん、だけどオレはこの写真を撮ることによってね、学生とかにもっと参加してもらいたいな。なんて思ったの。だから、その楽しそうなところを伝えたかったのさ。まー今のひ弱な学生にはこの炎天下の中踊るなんてありえないだろうが。けど、一度見て見るといい。その楽しそうな姿に感動するはず。
趣味は「よさこい」なんておしゃれじゃないですか。しかも、「竜馬がゆく」を最近読み終えたばかりのarloにとって土佐弁である「よさこい」はさらに親しみを感じるのでした。
※ えっ写真の子、若すぎるって?(爆)
映画「戦艦大和」がこの日だけ上映されるというので行ってきた。この映画は昭和2○年の映画で制作費1億○千万、構想3年。という大作だ。(どの数字もあいまいですみません。。。)
さて、昭和28年だったかな。28年といえば戦後まだそれほど時も経っていないはずだ。それなのに、何かうそ臭いところを感じてしまったのは、戦争を知らないから、聞いた話しだけの想像しかないからだろうか。見た感じ、厳しい軍隊というのがあまり象徴されていなかったような気がする。実際はどうなんだろう。
しかし、この映画は何が言いたかったのだろう。戦艦大和が沖縄へ向け出向するまでの経緯と、沈没するまでが描かれている。その中には当然、戦争という惨さが表現されている。それでも、「戦争はやめよう」みたいなものは感じなかった。ただただ、大和の沈没物語だったのかな~。それとも、この時代にこの映画だから意味があったのか。
戦争映画って好きじゃないんだけど、それでも見る事がある。そして見るたびに、つまらない思いをさせられる。だいたい戦争なんて無意味なんでね、なんでそんなことをしなければならないのか。過去の戦争を考え、そんなことを云うのはきれい事に過ぎないかもしれない。むしろ今考えなければいけないのは、そういうことをなくすことだ。戦争、テロ、あってはならないこと。すぐ暴力に頼ってしまうってのはホントに幼稚だよね。まるで子供の喧嘩みたい。
そんな子供の喧嘩に巻き込まれてしまう一般市民、この感情もまた複雑だ。
先日の地震の時の鉄道各社の対応が問われている。それらを見聞きしているうちに、人というのは本当にわがままだな~と思わずにいられない。
2~3時間止まっていたところは批判の対象にはもってこいだ。ないが間、運転を見合わせていたところは人員の配置による事が大きいらしい。だから、みんなここぞとばかりに「安全軽視」など人が少ないことをたたく。
はてはて、本当にそれは正しいのだろうか。世の中リストラは当たり前じゃないですか。一昔前はリストラをすれば株価が上がる、世に認められた策じゃないですか。それに、ろくな仕事もしないでブラブラしてる人が多い会社など、それこそ平時から批判の対称になるはず。人が少ない?ゆりかもめは、無人じゃないですか。ゆりかもめの場合は監視システムが発達しているとはいえ、乗客は地震があった時など不安を覚えなかったのでしょうか。
日本人は本当に要領良く経済を発達させてきたのかもしれないけど、焦りすぎじゃないだろうか。JR福知山線で脱線をよんだのは間接的に乗客ではないだろうか。時間優先のJRに流れたのは誰?JRが時間優先策を取らざる得なくなったのはなぜ?
ふっ地震に弱い鉄道。や、「まったく仕方ないね~このくらいで止まって」なんて言葉を聴くと笑ってしまうよ。それで無理に動かして事故が起きた時は、反転して批判する立場に回るのですから。
司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み終えた。云わずと知れた名作だ。この感想をこの場で800字程度で仕上げるというのは失礼に当たるので、また別の場で。むしろ800字で仕上げろという方が難しい。800字というのはこのブログを書くときの大体の目安。
竜馬は靴を好んで履いたという。船の上では靴の方が行動しやすいと。しかし、オレの場合、草履、雪駄、下駄を好んで履く。時代とは面白いものだ。しかし、今の時代、日本固有の履物を今でも好んで履く人もあまりいないか。
今日は雨である。雨の時はね下駄が良いんですよ。だからオレの中では下駄は雨具。雨の日しか履きません。なんせね、濡れてもすぐ乾くでしょ。しかも少々の水溜りも気にしません。なんて素晴らしい履物なんだろうって思うね。ビーチサンダルで歩いているのとはわけが違うよ。合理的であり品がある。ん?履く人に品がない?
草履、今はアスファルトが増えたおかげで裏にスポンジなど化学素材を貼らないとやっていけなくなり、雪駄との境界があいまいなものになってしまった。そのおかげで履きつぶしたものはちゃんと、最新の処理工場で焼かなければならなくなった。昔ならね、その辺に捨てようが、全てが自然のものだからそれで良かった。当然家庭で焼いても問題なかろう。
草履の履き心地も、安いサンダルに比べたら格段に良い。表は自然素材がほとんどだからね。しかも最近のものは裏が化学素材であるという負があるかわりに、表素材の選択の幅が広いんでね、きっとお好みの草履・雪駄が見つかるはず。
オレも船の上で行動するんだったら草履は脱ぐかもしれないが、この暑い中靴を履くってのがオレは信じられません。まして革靴なんて。。。国民一億総水虫か。(水虫の薬は症状が改善されても塗り続けましょう)
今日は友人宅を訪問した。引っ越したというので、たまたま時間がお互い空いている日があったので。
たまたまというか、本当はその気になればいつでも会えたみたい。この時期ならね。ただこちらの都合で会えなかっただけ。というのも、彼はスノーボード馬鹿で冬はせわしないが、夏は暇だという。ちなみにオレもスノーボードやります。まだ引退宣言しておりません。w
さて、スノーボード仲間でかつて一緒にチームを作り運営をしてきた、そしてビデオも作った。そんな仲の彼である。その彼が作ったビデオで昨シーズンのすべりを見せてもらった。
スノーボードから遠ざかって久しいので、なんか凄いワクワクした。しかもそのビデオがオレがかつて作ったビデオとは格段に良い物になっていた。ビデオの構成、音、撮り方。そして、何と云っても滑りだ。後輩なんかも映っていて、「あの頃はめちゃくちゃ下手だったのにな~」なんて思って、今はオレよりはるかに上手い。残念だけど、恥ずかしくてもう彼らと一緒に行けないや。なんてことも思ったりした。しかも、オレが寄り道せず、同じようにスノーボード馬鹿の道を突き進んでいたとしても、彼らと同じように滑れたかというと疑問だ。というか、滑れないだろうと確信している。
だけどね、不思議と悔しくもないんだね。滑ってなかったから。って言い訳ができるからってんじゃないけど、普通にみんな上手くなっててさ、良い作品残せてるんでね。俺も今年の冬は時間できそうなんですべりに行く予定です。
先日のGAKUMON BLOGで、ベトナムからの客人をガイドすることは話した。それが23日の土曜だったのだが、今日はその報告を。
まずあらかじめ断っておくが、オレがこの日に備え電子辞書をわざわざ買ったことからも分かるように、オレの英語はまだまだ発達段階にある。いや、それでも発達していれば良いが。。。だからオレの話す英語は英語のようであり、JANGLISHなのだ。その昔、イギリスをエギレスと言ったのとあまり変わらないレベルかもしれない。
さて、そのことを理解してもらった上で話すが、今回のガイドは、彼らの英語を聞き取るのに労を要した。そう、彼らも正確な英語ではなく、ようは VIETNISHなんだよ。だから、えっ?それって。。。って思うような言葉が多かった。
英語なんてのはどの国でも話されるようになって、イギリスとアメリカですら違いがあるのだから、それがアジア各国となったら差は大きすぎる。しかもその差の殆どが、発音の違いによるものだから本当に疲れる。それが一語や二語だったら良いのだが、そうではないからね。本当に英語がしゃべれれれば、オレほど苦労はしなかったろうが。。。結局はオレの勉強不足が悪い。
この辺がね、所詮は英会話学校や、CDできれいな発音や、JANGLISHに慣れてしまった人の辛さだよね。
生意気ながらも、ガイドが終わり家路につく頃には「きれいな英語が聞きたい」など思ってしまいました。自分の勉強不足を棚に上げて。。。これからもがんばりまっす。
もしこんなことを云ったら、ずっと黙っている人が多いのではないか。むしろ自分も黙らなければならないかもしれない。。。
司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」で次のようなことが云われている。「一つの概念をしゃべるとき、その内容か表現に独創性がなければ男子は沈黙しているべきだ」
ふむ、なるほど。確かに、どうでもいいようなことを、ダラダラ述べられたり、常識論をさも自分のオリジナルのように平気な顔して論じられてもまいってしまう。そういう人の話しを聞くのは時に時間の無駄のようにさえ感じてしまう時がある。特にこちらの話の聞く耳を持たない人は。
これを考えた時、きのうの相田みつを氏のそれぞれの言葉や、その書体、また作品の添えられたメッセージ、解説をできる限り思い出して分かった気がする。確かに彼の書は美しい。だからそれだけでも一つの作品にはなる。けど、似たような書を書く人は沢山いる。最近では20代の人も路上でそういうものを書いて売ったりしている。けど、その人達と違うのはその地となるものがあるかどうかという点であろう。
相田みつを氏の場合であれば歎異抄を地として作り上げた。オレは何も仏教を薦めているわけではない。無神論でも良いのだが、その行動と発言にはやはり、地となるものがないと、まさに「足が地に着かない」状態になってしまうのだ。
有楽町フォーラムの地下、相田みつを美術館に行ってきた。そこで一生勉強 一生青春してきました。というか、そういうタイトルの企画をやっていたので、ちょっと名前に興味があり行ってきました。
以前も訪れたことがあって、その時はどんな言葉が展示されていたかは忘れてしまいました。しかしいずれにせよ、どれもこれも心に残るというか、心に響く言葉ばかりです。心に残るけど、頭には残らない。。。w いや頭だけではないか。そういった言葉を受けた行動がとれなければ、心にも残ってないことになるか。。。
さて相田みつを氏は仏教活動を通してさまざまな経験、体験からその思いを書にしてきた。また歎異抄という本を熟読に熟読を重ね、血となり骨となり書となったようだ。これは、歎異抄という本を頭だけで分かったつもりでは駄目なんだよね。そうでなければ、あの書はかけません。
これはね、書についてだけでなくとも同じだよ。こういうブログや、日頃の行動、なんにおいてでもよく吸収し、血(地)を創り、骨を作り、そして自分のものとして出力していく。
う~ん、私も勉強終わらせるつもりはありません。オレの場合は「一生学問中」とでも云いましょうか。